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「鐘の鳴る丘」の思い出
   
 週1回のハーモニカ教室へ通うようになったお陰で懐かしい曲をそれなりに吹けるようになった。  「吹いて吸って」の基礎を繰り返しているに過ぎないが、 よく知られたメロディーに限ればハーモニカ特有の楽譜を見ながら吹くと意外と出来るものだ。  ただ、きれいな単音は出ない、濁った音が多いが、あとは慣れるしかない。  その初心者でも3ヵ月も経つといろいろ吹けるようになる。  少し慣れたところでハーモニカ専用の楽譜集を購入、懐かしい曲がたくさん出てくる。  子供の頃によく聴いた「とんがり帽子」も意外と楽に吹ける。
ここで突然出てきた「とんがり帽子」といえば終戦後に始まった連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌であり、 子供の頃の思い出を運んでくれる特別な曲である。 

 中学1年の時だった、そのころラジオ作りに熱中しており、鉱石ラジオから並四ラジオを終え、 高一(高周波一段増幅)ラジオ作りに挑戦するもなかなか鳴らない、発信音ばかりが頭を突き刺す、 やっと音声らしき微かな音にドキドキするも雑音の中にその声が消えていく、なかなか同調してくれないのである。  一里も離れた隣町のラジオ屋のおじさんが中古の2連バリコンと同調コイルをくれるというので自転車で取りに行き、 交換すると確かに良くなったが音声はモゴモゴしか聞こえない、結局は検波器の回路が間違っていることを教えてもらい、そこを直したら、はっきりとした音声が聞こえてきた。
どれ位の日時を費やしたか覚えていないが、そのときの感激は今も忘れていない。
秋空に少し夕暮れがかったころ、突然聞こえてきた音声が、 「♪〜みどりの丘の赤い屋根〜♪」の、♪♪かん高い歌声だった。 ・・・
その歌詞が最近買った楽譜に載っており、ハーモニカを吹いてみるとその一句一句が懐かしく響く。

 小学4年生以降はこの歌声を聴きながら育っているので、この曲を聴けば当時が懐かしく思い出される。 小学5年のとき、おばあさんと抱き合ってすくんだ福井大地震、岐阜でも大きく揺れ、 庭木につかまってしゃがんでいたこと、 庭の大きな石灯篭が倒れたことなどの光景が薄っすらと浮かんでくる。  新聞で大きく報道された東京裁判の結審は片田舎でも騒がしく映った。
鉱石ラジオの不思議さにはまっていた小学5、6年は月刊誌「少年クラブ」が唯一の楽しみだった。  中でも毎月連載される南洋一郎の冒険小説は繰り返し読んだ、 本の付録にある豪華なペーパークラフト(反射式幻灯機、国会議事堂、戦艦大和)の組み立てにも熱中していた。
毎月購読する1冊の少年雑誌がそれ程までに楽しませてくれたのである。
そして、古橋廣之進や橋爪四郎の名前がよく出てきたのもこの頃、 湯川秀樹博士のノーベル賞受賞、ミステリー小説のように描かれた国鉄発足を背景とする連続事件、 などは子供向けに描いて少年クラブに掲載されたから印象に残っているニュースである。
中学に入ると少年クラブから離れてもラジオ作りには夢中になる一方で冒険小説も好きだった。  スティーヴンソンの「宝島」を学校から借りてきたものの母親が先に読みはじめて暫く返してくれなかったことや、 その小説に出てくる少年がいろんな争いを潜り抜けながら生きる姿を、 「鐘の鳴る丘」中でぼんやり重ね合わせていたような思い出がある。

 子供心に不安だったのは、戦後復興期に合わせて描かれた「鐘の鳴る丘」に思いを寄せている時に朝鮮戦争勃発のニュースが頻繁に流れるようになったことであり、 それに合わせるように「鐘の鳴る丘」がラジオ番組から次第に消えていったのである。 戦後復興期は昭和25〜30年までを言うそうで、 朝鮮戦争の特需景気もあって急速に豊かになっていく。 そして、なぜその時期に大ヒットしたのか分からないが翌31年に歌謡曲「ガード下の靴みがき」(宮城まり子)の歌声が連日ラジオから流れるようになると、 やはり「鐘の鳴る丘」と重なるものを感じながら聴いていた。


[ 2008-10-15 ]