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小学校のときハーモニカを買ってもらった記憶はあるが習った記憶は定かでない、
それが何故か古希を過ぎたこの歳になって練習を始めた。
生涯学習センターでハーモニカ入門講座を受講したのがきっかけで、その後3年続いている。 ハーモニカ特有の数字譜は
分かるが楽譜は読めなかった。 この際、小学生並みの音楽の知識くらいは持ちたいとの思いから楽譜の読み方を勉強しながら
音楽の歴史を辿っているうちに音楽理論の方にまで入り込んでしまった。
そして、その先は編曲を通り越して作曲なるものに挑戦を試みるに至った。
その方法は簡単で、左手に持つハーモニカで鼻歌まじりのメロディを探りながら右手でパソコン画面の五線譜に音符を並べるというやり方で、
とりあえずはハーモニカで独奏したくなるような曲ができれば嬉しい。 |
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「ド」の音を出すと「ミ」と「ソ」の音も一緒に出るのは、なぜ?
ハーモニカで一番下の「ド」の音を出したとき、そのスペクトル(周波数分布)を見ると、
1オクターブ上の「ソ」音、2オクターブ上の「ミ」音も一緒に出ているではないか。
最初は吹き方がおかしいのかと思っていたが、あるとき主要3和音の意味をを調べていたときに、その理由がやっと分かった。
ハ長調の主要3和音は、「ドミソ」、「ファラド」、「ソシレ」を指すが、 これらが「なぜ」和音として安定した綺麗な音に聞こえるのだろうか?、 と考えたとき音の「倍音」(電気工学では高調波)のことが頭に浮かんできた。 1つの音を鳴らすと2倍、3倍、・・・の振動が重なって発生することはよく知られている。 右図は鳴らした音(基音)およびその音の2倍音、3倍音、4倍音の波形を、一番下にそれらの合成波を示している。 ある音を鳴らすと実はこの合成波の音が鳴っているのです。 実際の合成波は波の足し算になるからもっと複雑な波形になるが、 いずれにせよ複数の音が重なってできる合成音は、図のような規則正しい繰り返しになり、 この規則正しい繰り返しになっている音の重なりが人には安定したきれいな音に聞こえる、と言うことです。 では、この2倍音、3倍音、・・・の性質を見てみましょう。 たとえば基音として「ド」を鳴らしたとします。 このとき、2倍音は1オクターブ上の「ド」、4倍音は2オクターブ上の「ド」になりますが、 3倍音は2倍音の1.5倍の周波数の波になっているから、これは「ソ」音に該当します。 図には示していませんが5倍音はどうかと言うと、これは4倍音の1.25倍だから、これは「ミ」音になります。 つまり、基音に「ド」を鳴らすと1オクターブ上の「ド・ソ」、2オクターブ上の「ド・ミ・ソ・#ラ」も一緒に鳴っていることになります。 この倍音は、フーリエ級数:{蚤k・cos(kx) + bk・sin(kx}によって体系づけられ無限個の波が現れるが、 基音に比べ周波数が高くなるにつれ音のエネルギーは次第に落ちていくので無視できるようになります。 それに、弦楽器や管楽器などの現実の音源の倍音は厳密な整数倍ではなく、揺らぎを与えているそうです。 「ド・ミ・ソ」だけでなく、「ファラド」、「ソシレ」も同様に導くことがき、基音に「ファ」を鳴らすと1オクターブ上の「ファ」、2オクターブ上の「ド・ファ・ラ」、3オクターブ上の「ド」も一緒に、 基音に「ソ」を鳴らすと1オクターブ上の「ソ・レ」、2オクターブ上の「ソ・シ」、3オクターブ上の「レ」も一緒に鳴っています。 これらは自然な音の発生で、音の波形は規則正しく安定した波になっています。 だから安定した綺麗な和音と言われる所以ではないかと思います。 これらの和音「ド・ミ・ソ」、「ファ・ラ・ド」、「ソ・シ・レ」が完全に調和するときの周波数比は4:5:6になっており、 一方で基音をラとしたイ短調の基本3和音である「ラ・ド・ミ」、「レ・ファ・ラ」、「ミ・ソ・シ」は10:12:15 の周波数比になっています。 このように、純正律では、3和音が一番協和するように音程を決めているが、一つ困った問題が出てきました。 それは和音を重視するあまり長調と短調でレとミの周波数比に食い違いだでるため、音楽で付きものの転調が難しくなってしまいました。 その改善として考えられたのが現在使われている平均律です。 もともと聴覚は周波数を対数的に知覚するので、音階の差は周波数の差ではなく、その比として決めればよい。 すなわち1オクターブを12等分したとき各音程の周波数は、2の12乗根(21/12≒1.059)を公比とする等比数列にすればよいと言う訳です。 この平均律だと転調には問題は無くなったが、音の並びである音階は純正律の周波数比と少しずれるため、平均律では綺麗な和音が少し犠牲になっているようです。 音楽の要因は脳の働きを利用している
オクターブの間隔は2のべき乗になっており。
音の長さ(全音符・2分・4分・8分・16分・32分音符)も2のべき乗の構造になっている。
聴覚だけでなく、視覚・触覚・味覚・嗅覚も対数的に感知するのは脳がそのような働きをするためである。 脳が対数的に作用するのは、人は常に穏やに過ごしたいという本能と、いつ何が起こるか分からない危機予知本能がバランスよく保たれている。 前者を積分効果、後者を微分効果と言っているが、これこそ生きるために神様から贈られた機能だと思う。 音楽にも必要な機能だろう。 5感が共通の働きをすると考えると音楽に対する応用も広がりそうだ。 たとえば、写真を視覚特性に合うように綺麗に仕上げるための画像処理技術が音楽でも応用できるかもしれない。 音楽っていつまでも心に残っているものですね
ある人がさりげなく言ったこの言葉が印象的であった。
確かにそうである、子供のころ何気なく口ずさんだ歌を今も鮮明に思い出せるのは何故だろう。
しかもその歌を思い出すことに連動してその当時の映像が浮かんでくる。
音楽といえば、1オクターブ12種類の音階と、ほぼ6種類の音の長さの組合せで構成される旋律にすぎないが、
一度脳裏に焼きつくと何故かいつまでも記憶に残るから不思議である。
「百聞は一見にしかず」と言うように、目から入る情報量は耳に比べてはるかに多いので映像の方が記憶に残りやすいと思うが音楽ほど鮮明に残らないのは何故だろう。
情報量が多いということは、その場での理解度を助けるには役立つが、そのことを印象付けるだけの特徴が少ないため記憶過程に留まりにくいのかものかもしれない。
人の話した言葉はよほどのことでないと記憶に残りにくいが、同じ音でも音階を刻んで進行する音楽が記憶に残りやすいのは両者で記憶過程が違うからである。 言葉は物事を論理的に考える助けにはなるが印象付けるだけの特徴が少ないので記憶に残りにくい。 それに比べて情報量の少ない音楽はイメージとして処理され、特徴づけができるので記憶に残りやすいのだろうと思う。 一方、物語や詩の語りに旋律を当てはめた、文章を朗読するようなバラード曲(?)のようなものは、 言語処理とイメージ処理が同時に作用し、特徴づけし易い旋律だけが記憶に残りるのだろう。 やはり楽曲の形式がきちんと整って安定しており、リズムに乗り易く旋律に特徴のある曲が心にるのだろうが、 その前に人に優しい音の変化と云うものがあり、曲作りの中で次第に分かってくる。 どんなメロディが心に残りやすいだろうか
メロディは音程の変化と音の長さの変化で決まるわけだが、そもそも人の心に残りやすい曲とはどんなメロディを指すのだろうか、
音楽の旋律理論とは別のところに興味がある。
子供の情操教育のための音楽、赤ちゃんに聴かせるとよい音楽、モーツァルトの音楽を胎児に聴かせると良い?、
F分の一周波数揺らぎのある音楽は安らぎを与えるなど、さまざまなことが言われる。
どれも当たっているような気がすると同時にこの先に何があるのか興味が増す。
脳細胞のゆらぎもF分の一に沿っているらしいと云う話がある。 もしこれが本当なら、
それに呼応するメロディは癒しを与える素晴らしい曲になるだろうが心に残るメロディはまた別のところにあるかもしれない。
通常のメロディで、音程の変化は2、3度上下するような順次進行が殆どだと言われるが、 常にこれだと、安定性はよいが平坦で退屈な曲になってしまうので時々4、5度上げ下げする飛躍進行を入れたり、 音の長さに変化を与えるなどして順次進行と飛躍進行を適度なバランスで取り入れるのが大切だそうだ。 安定した楽曲の進行の中で人の本能を刺激するゆらぎが与えられたとき、それが心地よく脳裏に焼きつくのではないだろうか。 このことは、メロディの流れの中で、期待した音が次に出たときの安堵感・心地よさ、 予想に反した音が出たときの意外性の両者がバランスよく流れていくメロディこそ人を引きつけるのだろうと考えた。 音楽は写真や絵画と同様にイメージとして捉えている
大脳のうち、右脳は物事を直感的に捉え、感覚的・直感的・イメージ的に処理する能力、
一方の左脳は物事を論理的に捉え、論理的・分析的・計算的に処理する能力であると言われており、
両者のバランスによって個人の性格がよく現れる。
画像や音楽は右脳で、言語は左脳で処理されることになるが、音楽と同じ音でも人の話は左脳で処理される。 たとえば2人で会話しているところへ他人の話声が聞こえてくると2人の会話が乱れることはよく経験することだが、 2人の会話中に音楽が聞こえてきても会話が乱れることはない。 これは同じ音でも処理する脳が異なるからだと理解できる。 つまり音楽を聴きながら会話を楽しことができるのは右脳と左脳の両方で処理するからであり、 音楽を聴きながら絵画を観ることに何の違和感もなく両立するのは右脳が感覚的に物事を捉えるから並列処理が可能だからと推測でき、 一方の2つの会話が両立しないのは左脳が論理的に処理するので並列処理が難しいからと推測できる。 このように右脳で処理する音楽と絵は互いに融合して1つの形で感情を表現するのだろうと思う。 人に安らぎを与える心地よい音の秘密
人に安らぎを与える心地よい音としてF分の一ゆらぎが注目される。 F分の一は周波数に反比例することであり、
ある音が出たとき機械的な一定の周波数だけではなく、その周波数に反比例するバラツキ音が加わるとそれは安らぎの音、
心地よい音として心に響くのだろうと考えられる。
これは自然界の至る所に存在する基本のリズムであり、人がその中に居ると心身ともに癒されると言われている。 何故そうなのか、そのメカニズムはまだ解明されていないが、F分の一ゆらぎの中に入ると脳波の内、α波が大量に出されリラックスすると言われている。 クラシック音楽にもF分の一ゆらぎが大量に含まれているそうだ。 F分の一ゆらぎが発生する場所といえば、ろうそくの炎、そよ風、木漏れ日、さざなみ、小川のせせらぎ、蛍が放つ光、星のまたたき、電車の揺れなどいろいろ発見されているが、 なぜそれらが癒し効果になるかと言えば、人の心臓の鼓動や細胞の活動そのものにF分の一ゆらぎがある、 つまり人の体のリズムがF分の一ゆらぎになっていると言われるからだ。 お母さんが赤ちゃんを抱くとき、殆どの人は赤ちゃんの頭を左胸に置くそうだが、 それは赤ちゃんがお母さんの心音を聞くことによって、最も安らぎを覚える空間だからだろうと想像できる。 誰から教わるわけでもなく本能的にそれを実行しているのだろう。 音のゆらぎといえば、ビブラート(周波数変調)やトレモロ(振幅変調)という言葉があり、何れも音を揺らす効果としてよく使われる。 しかし、これらは意図的に作り出す音であり聴く人によっては嫌な音にもなりえる。 F分の一ゆらぎはこれとは異質のものである。 フラクタルな図形と旋律の親和性について
その昔、カオスの世界とか、フラクタルな人生とか言った言葉を何度も聞いたことがある。
そもそも、自然界のあらゆる現象は基本的に2つの性質で成り立っており、一つは自己相似性(フラクタル)、 もう一つは「ゆらぎ」であるということであったと思う。 人体は局部的にフラクタルな構造が多く、その中の揺らぎは人に必要なゆとりの幅と解釈してきた。 そして最近になって音楽の入門を学ぶようになって考えてみると、この自然界のフラクタルな振る舞いと旋律に関連することが多いと思うようになった。 自然界が造り出す形にはどことなく似通ったものがあるが、これは自己相似形によるものでありこれを数学的に表現したのがフラクタルである。 自然がつくり出す自己相関のある形が美しいように、音楽の世界でも自己相関のある旋律の流れも美しいに違いない。 音楽の中で、長音階が人に安定した刺激を与えるのに対して短音階は不安定な刺激を与えるが、 人はそれを情緒不安定な哀しみの音階・癒しの音階として本能的に理解しているのかもしれない。 旋律の進行が予想通りに流れた時の快感と予期せぬ流れに傾いた時の意外性にも快感を覚え、 「あぁ、いい曲だなぁ」〜なんて感ずるのではないかと考えてみた。 そんなときフラクタルな動きは、局部的にみて安定した動きとカオス的な唐突な動きの両面をもつという点で、音楽にも適応できるだろうと思った。 人は平穏でいたい本能(積分効果)と危機防衛本能(微分効果)が常にバランスを保って生きているから、 人体そのものがそれに適応できるような構造になっており、それに対応するように音階や音符の長さ、オクターブが2のべき乗構造になっている。 作曲も英会話と似たところがある ?
昔習った英語を思い出す。
英語には30文字ほど使う単語があるそうだが、平均的に1単語6文字程度であると仮定しよう。
すると、アルファベット26文字の内6文字を使って表現できる数は26の6乗、およそ3億位になる。
しかし、何億もの単語が存在するわけではなく、世界最大収録を誇るオックスフォード英語辞典でも50万単語程度が収録されているそうだ。
実際に使われる常用単語はその十数分の一かもしれない、ましてや習い始めの者が使う単語と言えば僅かである。
その僅かな単語を使って日常会話をしても相手には何とか伝わる。
単語や慣用句を多く覚えれば表現力豊かな会話ができるが、問題はイントネーションである。
意思を伝えるだけなら片言会話でもよいが、それでは双方が疲れる。
現地人のあのリズムに乗った流れるような語り口からは音楽のような心地よさが伝わってくる。
作曲も英会話と似たところがあり、メロディが英会話ならフレーズは英単語の集まりに相当する、 そのフレーズをたくさん知り流暢なリズムにのせれば豊かな表現のメロディができそうである。 言葉には文法があるように音楽にもメロディを組み立てるのに幾つかの型式がある。 これらは上品で安定した曲に仕上げるのに必要な型式、つまり美しいメロディを奏でるための構文に相当する。 しかし、この枠組みにこだわるとその枠組みに縛られて自由な発想でメロディを表現するのが難しくなる。 子供に頃、英語を習うのに英文法から入ったため、その形に縛られて英会話がなかなか上達しなかったことを思い出す。 やはり文法を知らない方が英会話の上達は速かっただろうと思う。 メロディの中のフレーズとは
フレーズとは、「咲いた、咲いた、チューリップの花が」のようにリズムの感覚で区切ることであり、
「チューリップの、花が」のように2つに分けてもよい。
既にある好きな曲のフレーズを1つの単語のように身につけておけば自分で曲を作るときの参考になる。
そのフレーズの長さは3〜5音を目安にするのがよい。 あまり長くすると、
そのフレーズに束縛されて自由な展開ができなくなったり、既存曲に似た感じになり盗作と間違えられる可能性がある。
やはり細切れのフレーズの方が次への展開がしやすく、自由度も増してオリジナル曲が作りやすくなる。
音楽には使えるフレーズがどれくらいあるか
先ほどの英会話の単語数と同じように、フレーズの数がどれ位あるか考えてみることにしよう。
音符はアルファベットに相当し、その組み合わせで1つのフレーズができる。 普通の音楽のメロディの音域は2オクターブ程度あればよいとする。 音符の数は24個(1オクターブ内の音階はド・ド#・レ・レ#・・・ラ#・シの12個)あり、 1フレーズ内の音の数を5音程度にすれば、フレーズの組み合わせ数は24の5乗、つまり800万弱になる。 単なる組み合わせ数だけで言えばこんなに多くのフレーズ数になってしまうが、そのうち音楽として実際に使えるフレーズの数は限られてくる。 音楽には経験則からくる「旋律の規則」と云うのがあり、不自然な旋律にならないための規則がある。 たとえば、増音程進行というのがあり、ある音から増4度、減5度進行は不自然な旋律になるので禁止されるなど、 他にも沢山の禁則があるので使えるフレーズの数は大幅に減る。 更に普通のメロディでは前の音と次の音の音程は2度まで(順次進行)が大多数であり、次に3度〜5度の音程(跳躍進行)が多く、 1オクターブ以上跳ぶのは稀だと言われる。 このような制約を加えていくと実際によく使われるフレーズ数はかなり限定的となる。 仮に曲の殆どが3度以内の進行で構成されているとすれば5音から成るフレーズの数は、3の5乗=243の組み合わせしかない、 これに対して曲数は星の数ほどあるので、どの曲にも必ず他の曲と重複するフレーズが出てくることになる。 実際に、ミ・ラ・シ・ドで始まる曲は沢山あるらしい。 気に入ったフレーズを実際に使ってみる
自分で思いついたフレーズ、或いは好きな曲を聴きながら拾ってきたフレーズなど、
気に入ったフレーズがあれば何でもありでメモしておくとよい。
1フレーズの長さは3〜5音くらいにしておき決して長くはしない。
長いフレーズにするとそのメロディの方へ引き込まれてしまい、
新しい発想が浮かびにくくなるからである。 フレーズの終りの音は、
導音で終わらせておいた方が、次に続くメロディが引き出しやすい。
たとえば、右の例は1つのフレーズとして完結するが、最後の「ラ」を導音にするか、
その手前の「ド」を導音にするかによって次に続くメロディの展開がガラッと変わってくる可能性がある。
実際に試してみると、この点を境にメロディの流れが違う曲に展開されていくことが分かる。
特にハーモニカを片手に持って吹いてみると、どれを採用しようか迷うほど多くのいろんなメロディが浮かんでくることがあり、
フレーズによっては最後が特に全終止音で終わっているような場合には次に続くメロディが全く浮かんでこないこともある。
1つのフレーズを手がかりにオリジナル曲?を作ってみる
「ミ・ラ・シ・ド」のフレーズで始まる曲は沢山あるそうだ。
それが、音の長さのとり方や進行の仕方によって「荒城の月」や「高校三年生」などのメロディに展開されていく。
そこで、気に入ったフレーズ(長さ3〜5音くらい)を1つ選び、それを手がかりに鼻歌交じりで次へ展開していくと、
その時点で何らかのメロディができている。 それを先へ先へと繋げていくと、やがて行き詰ったところが曲の終りになる。
といった具合で1曲完成。 しかし全体を通して聴いてみるとチグハグで意味が分からない。
無理もない。 楽節の並べ方にも幾つかの型枠があるのだが、
今のところそれを無視した成り行き任せのメロディになっているからである。
それに、この時点ではどのような曲にしたいか全体のイメージを掴んでいるわけでもない。
まぁ、これが素人作曲の始まりということである。
せめて曲のイメージを想像しながらメロディを進行していくと、思った以上に纏まりやすい。 オリジナル曲だが、雰囲気がどことなく他の曲に似ている
気に入ったフレーズを見つけ、それを曲の始めに持ってくると、それだけで曲のイメージがほぼ決まってしまうような気がする。
そのはず、最初のフレーズを頼りに鼻歌交じりでメロディを探りながら成り行き任せで次へ次へと展開していくからそうなってしまう。
気がつくと著名な曲のメロディの中に入り込んでしまっていることに気づくことがある。
それは音階表現能力に限りがあるからだろう。
実際に使えるフレーズの数は経験則からするとそれ程多くはなく、 公開されている曲の方がはるかに多いと想像できる。 となれば、一つの曲を作れば多少なりとも他の曲と似たところが出てくるのは仕方ないことのように思える。 長調と短調の違いのように明るい曲、哀愁に満ちた暗い曲などその曲の性格によって、曲は違っても同じフレーズが幾つも出てくる。 フレーズが少し似ているだけで何となく曲全体が似ているように錯覚して不安に思うことがある。 特に、著名な曲の代表的な特徴を示すフレーズが、自分で作った曲の中に少し混ざっただけで、どこか似た感じがしてオリジナル性が失われてしまう気分になることがある。 ましてや、あまり長いフレーズに亘って似ていると盗作にも繋がってしまうので注意しながらメロディを探していくことになるので、その点が難しい。 特に出だしの部分には注意が必要で、そこが似ていると後ろの方も似ているように錯覚されても困るので、 そのようなときは前に2、3小節違うメロディを入れるだけで印象が変わってくるそうである。 メロディがどれかに似るのはやむ得ない
オリジナル曲なのに他の曲に似てしまうということは作曲家の方々でも共通の課題だそうです。
この曲とあの曲は雰囲気や入り方がよく似ている、ということはよくあるそうで、 好きな曲の影響は受けやすく、その中でイメージを膨らませていくのだろうから余計に似てしまうのかもしれない。 曲を作ってみて困るのは、このフレーズが何処となく聴いたことのあるフレーズだと思ったとき、それがどの曲のフレーズなのか分からないとき気分が悪い。 無難のためにそのフレーズを捨てるには勿体ない、と言ったことが最後まで残る。 好きな曲のコード進行を利用してそこへ新しいメロディを乗せるのはよく行われるそうで、 コード進行が同じなら似て当然かもしれない。 そのよう場合は、「〜の影響を受けた作品」「〜風の作品」と言われるそうです。 何物にも束縛されず自由に描いたつもりでも感性的に共有するものがあればその影響を受けているわけだから似るのはやむ得ないだろうし、 余りにも酷似する結果になれば、それは編曲ということになるだろう。 編曲か盗作か、どんな場合に盗作になるだろうか
最近では上海万博のPR曲が盗作ではないかと疑われ、最終的には著作権者が使用許諾を出すということで決着したそうである。
何処までが侵害か明確ではないが聴き分けるとよく似ている、AメロからBメロ、サビまでかなり似てということであった。
随分前になるが、服部克久さんが作曲した「記念樹」が小林亜星さんの作曲した「どこまでも行こう」の盗作であるとして著作権侵害を訴えた事件があった。 最終的には小林亜星さんの勝訴となり、「記念樹」は「どこまでも行こう」の編曲であるという判決になったそうです。 編曲なら著作権者の承諾が必要だがそれを怠れば著作権侵害になり、それが盗作という言葉に変わる。 この判例を見ると、なるほどここまで似ていれば盗作になるのだろうと理解できる。 オリジナル曲のつもり完成しても、盗作だと言われたらがっかりするだろうから少しは知っていた方がよい。 この件で、東京高裁が下した判断は、 盗作か否かの判定基準を知る(※)のに役立った。 ※要約:旋律において他に例を見ないほど多くの一致する音を含む(約72%)にとどまらず、 楽曲全体の旋律において特に重要な役割を果たす各フレーズの最初の3音以上と最後の音が、 全フレーズに亘って一致しており、楽曲全体の構成が酷似する結果となっており、 そのほとんど同一というべき旋律が22音にわたって連続して存在している(全体の3分の1以上)。 2分の2拍子の原曲を4分の4拍子に変更する程度のことは演奏表現の範囲内にすぎない。 と判断された。 鼻歌交じりで生まれる成り行き任せの曲
まぁまぁ、素人のやること、迷曲は出来ても、いきなり名曲は無理である。
迷曲の中でも、もしかしたら局部的には名曲部分があるかもしれない。
5音程度とはいえ気に入ったフレーズが見つかれば、
それを手がかりにその先を探りながら鼻歌でメロディを作っているわけだから何かいい曲が生まれるかもしれない。
期待できそうだ。
情けないことに私は音程の感覚がまるで掴めないので、鼻歌で得たメロディを音符の形にできない。 そこで、鼻歌の代わりにハーモニカがとても便利。 音程は確かだし、 ハーモニカを左手に持ってメロディを探りながら吹き、右手でパソコン画面の五線譜に音符を並べていけばよい。 数小節のメロディができたらその部分を五線譜上で演奏してみれば良し悪しはすぐ分かる。 このような操作はパソコン上なら簡単にできる。 作曲ソフトは最初から高価な物を買わなくても自分で使いやすくフリーで入手できるものをネット上で探せばよい。 曲の途中で他のメロディを思いついたらそれもメモしておくと後で役立つかもしれない。 それは今の流れでは不自然だが他の局面に至ったとき使えるかもしれないからである。 美人は三日で飽きる・・・、と言うが
こうしてメロディを探りながら先へ先へ進んでいき、行き止まった時点がとりあえず曲の終りとして完結させる。
チグハグな個所は何度も何度も修正を加えながら第一曲が完成する。 うん、我ながら見事である。 家族に試聴してもらう。
お世辞にしても、なかなかの合格点。 暫くの間は自分の曲に酔いながら聴いていた。
3、4日経ってから再度聴いてみると何処となく不自然さを感ずるようになった。
飽きてきたのか、やはり一過性の美人だったのか。
飽きたということは、いろんな姿が見えてきたということだから磨いていけばいい。
最初に美人に見えたのはやはり美人だからだろう。 この曲を聴くたびに愛情を込めて少しずつ手直しを加えていく。 あまりいじり過ぎるとやはり最初の方がよかったということになるかもしれないが、手を加えるのも楽しい作業である。 自由作曲がはじまる
作曲を本格的に始めるには、コード進行やリズム構成など複雑なことがいろいろ出てくるので最初はそこまで考えない。
先ずは自分にできる範囲内でメロディを作ってみることから始める。
作曲する際に通常は、 (1)メロディを先につくり、それにあうコード進行をつける (2)コード進行を先につくり、それに乗せるメロディを考える (3)メロディとコード進行を同時に思いつくまま作っていく のいずれかだそうだ。 プロの作曲家でもコード先行型の人もいればメロディ先行型の人もいるそうで、 初心者が作曲する場合や、機械的な手順にしたがって作曲する場合は、圧倒的に(2)のコード進行を先に作成した方がメロディは楽にできそうだ。 試しに(2)の方法でやってみた。 確かにその通りではあったがコード進行が先にあると云うことは、 そこで既に枠を決めていることだから自由な発想でメロディができない、 何となく自由を奪われたような狭い範囲に入り込み平坦な曲になってしまう可能性がある。 これに対してメロディを先に作りコードは後で付ける或いはメロディだけにするというやり方にしてみると、 制約がないだけにメロディが自由に展開できていくのでやりやすいとは思うが、 ある程度進んだところで曲を演奏してみると全体ストーリーがないままメロディを作っているので何だかチグハグになることもある。 しかし、全体を通してみればやはり(1)のメロディを先に作った方がやりやすい。 また、作曲入門講座で教わった先生によれば、メロディありきで曲を作ればコードは後からついてくるという。 曲のストーリーを考える
自分なりのオリジナル曲を作ろうと思ったとき、どんな曲にしたいか先ずはイメージ作りが大切になる。
日々の生活の中で見つけた身近な題材の方が曲のイメージ作りがやりやすい。
たとえば毎日の散歩道で見つけた草花の姿、小川のせせらぎの様相、庭の木々にさえずる小鳥の姿など、素材は豊富にある。
歌詞まで作らなくても具体的なシナリオがあればメロディは更に作りやすい。
曲のタイトルを決め、曲のシナリオを描いておくとメロディが進行しやすいし、チグハグな曲にならず纏まりやすい。 たとえば、「春の庭」というタイトルをつけ、その情景として「新芽が日差しに映えて心地よい、蕾が急に膨らみ花が咲きはじめる、鳥がさえずり、 蜂が巣作りの偵察にやってくる、・・・など、春になると庭が賑やかになる様子」を想像しながらメロディを進行させると曲が作りやすくなる。 歌詞なしの自由曲を作るのに比べれば、最初に歌詞ありきでそれに合ったメロディを作るのは難しいが、7・5・7・5・7・5・・・・調の歌詞にしておくと曲としては纏まりやすい。 楽節の並べ方にも定石があるそうです
1曲の構成として思いのまま自由な発想で作っていけば、意外性が加わるなどがあっていい曲が生まれそうに思うが、
間違えば整合性のないチグハグな曲になる可能性もある。
音楽と言うからには何らかの秩序、構造、区切り、順序などが認められなければならない。
そのために決められた枠組みがあり、その中で作曲すれば上品で安定した曲になるだろうということで幾つかの形式がある。
8小節ごとのまとまりを1大楽節という。 別に8小節である必要はないが古くからこれが正式とされているようだ。 この楽節(フレーズ)を幾つか並べて作曲すると安定した曲になるといい、その並べ方に定石があり代表的には次の形式が挙げられる。 (安定しすぎても退屈な感じはするが) 一部形式:一個の楽節で一曲をなすもの。 ・・・・・・・・8小節(4+4):(a−a') (a−b) 但し、ダッシュの有無はメロディが類似である。 二部形式:二個の楽節A、Bをつないで、A−Bの形で一曲をなすもの。 AとBが余り違うとまとまらないので、Aと良く似た楽節A’を持って来て、A−A’の二部形式にすることが多い。 ・・・・・・・・16小節(4+4+4+4):(a−a−b−a') (a−a'−b−b') 三部形式:三個の楽節をならべて一曲とする形式。 三つの楽節が全部異質であるA−B−Cの形でも構わないが、 二つの楽節A、BをA−B−A(A’)のように配置したものが多く、AとBが多少異質であっても良くまとまる。 ・・・・・24小節(8+8+8):A提示(a−a')−B展開(b−b')−A再現(a−a') A(a−a')−B(b−b')−C(c−c') A(a−b)−C(c−c')−A(a−b) A(a−a')−B(b−c)−A(a−a') A−A'−B A−B−C 小三部形式:3つのフレーズで構成される曲・・・・・・12小節(4+4+4):(a−b−a) (a−b−c) 複合三部形式:中間楽章または終楽章を持ち、各部が二部形式または三部形式になった形式 ・・・・・・・・・・・主部(A−B−A)−中間部(C−D−C)−主部(A−B−A) 大楽節4組の曲:・・・A−A−B−A' A−A'−B−A" A−A'−B−B' A−A'−B−C 曲の始まり方:コードT(長調:ド・ミ・ソ、短調:ラ・ド・ミの何れか)で始まる。 曲の終わり方:@落ち着いた終わり方(完全終止):コードX(長調:ソ・シ・レ、短調:ミ・ソ#・シ) Xの代わりにX7(長調:ソ・シ・レ・ファ、短調:ミ・ソ#・シ・レ)も使われる。 曲の最後はコードTの主音(長調:ド、短調:ラ)で終わる。 A続く感じの終わり方(半終止):コードX(長調:ソ・シ・レ、短調:ミ・ソ#・シ) 和歌や俳句など歌詞に沿ってメロディを作ると
楽曲の形式に合致するように作曲すれば安定した上品な曲になるだろうことは想像できるが、
和歌や俳句のように5・7・5・7・7調あるいは5.7.5調のようにフレーズの纏まりが一定でないと楽曲の形式には当てはめにくい。
無理に当てはめようとすれば不自然な曲になってしまうので、形式に拘らず歌詞の流れに沿って作曲すればよいと思う。
因みに、「荒城の月」は七五調で「7・5・7・5・7・5・7・5」、「影を慕いて」は五七調で「5・7・5・7・5・7・5・7・5」になっている。
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